聖隷浜松病院では一般小児科・新生児医療・産婦人科に携わりました。周産期医療の研修という観点から、希望して産婦人科でも半年研修しました。100例以上の分娩、帝王切開・子宮筋腫・卵巣のう腫等の執刀医を経験させていただき、また乳癌検診・婦人科検診にも従事しました。当時聖隷浜松病院の分娩数は年間1000件を超えていたように思います。
母体搬送も積極的に行ないつつあった頃で、ハイリスクの妊娠・分娩も多くみられました。研修は主には未熟児センターのNICUで行ないました。殆ど毎日院内の分娩立会いがあり、またmobil NICU(新生児専用救急車、2台あった)での他院出生の未熟児や病児の収容・分娩立会いなどを行ないました(1日に3〜4回救急車で出動することもありました)。浜松医大
付属病院で三つ子の出産があり、分娩の立会いに行ったことは今でもよく覚えています。
未熟児センターではハイリスク新生児ばかりで、まさに寝る暇もない程多忙な毎日でした。現在でこそ500グラムで出生すれば助かるといわれていますが、当時はまさに未熟児医療の最前線の状態であり、世界中の知識を吸収し、いろんな方法を模索しながらの治療でした。
静岡県の新生児死亡率が日本一良いのは、この病院の先輩達の努力の賜物であり、このような病院で研修できたことは私にとっても誇りです。指導医は犬飼先生(現在は浜松市でいぬかい小児科を開業)で夜になってもなかなか家に帰らず(夜昼逆転?)、センターで仕事をしているので私も帰れずに困ることも多々ありました。私の小児科医としての基礎はこの病
院での研修時代に築かれたと思っています。
昭和59年から香川医科大学小児科で新生児医療と一般小児科診療に従事しました。大西教授がビリルビン(新生児の黄疸の原因物質)の研究をしていることもあり新生児医療にも力を入れていました。当時国立大学で新生児医療に取り組んでいる所はそんなになかったように思います。
香川といえばさぬきうどん、安くて美味しいうどん屋さんもありました。丸亀に本店のある「一鶴」(いっかく)という骨付き鳥の専門店は何度も通いました。今でも年に1〜2回は食べに行きます。どうも食べ物の話に反れてしまいました。
多忙で体調を壊したこともあり一度初心に帰ってみることにしました。学生時代から考えていた無医村での仕事をしてみようという気持ちを改めて思い起こし、昭和63年から愛媛県久万町の直瀬診療所で仕事をさせていただくことになりました。ここは皆親切な人ばかりで心が洗われるようでした。今でも直瀬の人達には感謝しています。
その後いろんなことがあり、平成3年から今の美川村でこのみかわクリニックを預かることになりました(委託開業です)。ここでは気兼ねなく自分の思っている医療をすることができます。木下村長さんも全面的に支援してくださっています。美川の「赤ひげ」を目指して・・・
しかし、ここで転帰が訪れました。2010年の町村合併により委託元が美川村から久万高原町になりました。木下村長が心配されたように、合併後は当院にはメリットはなく、医療機器の買い替えや補充にも町が出費を厭うようになってきたのは事実です。半分は金出してを出してくれというわけです。開院し約30年も経過しており、殆どの医療機器の買い替えや、建物自体やそれにまつわる設備の改修が必要になってきています。それらについても自分でやってくれと言うようになりました
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